庵野監督が終わらせたのならば、私も終わらせねばなるまい。
劇場公開初日にTwitterのタイムラインが荒れてないだけで、分かってまうんやぞ!!「あ、ちゃんと終わったらしい」て。こちとら、Nifty-Serveのガイナックスフォーラムで考察やってた90年代オタクの生き残りや!その考察専用の「会議室」が「エヴァンゲリオン邪推委員会」という名前だったんです。
シンエヴァ公開時に往事を思い起こしているオタクの皆さんはこちら
Nifty-Serve ガイナックスフォーラムの「当時」を知る人達 – Togetter
そういうわけで、自分も最後の「エヴァンゲリオン邪推委員会」活動をやって、オトシマエをつけねばならんだろうと。当時のパソ通、インターネット接続の話も色々と書きたいことはあるので、書くかも知れません。
エヴァはSFではなく哲学
知的生命、意識ある生命とは?世界とは?世界のありようを概念から変えてしまうような存在や現象があって、どうたらこうたら…そういう存在がヒト型を取っていて、世界を書き換えようとする別の存在と戦わなければならない。ということで、そのヒト型の何かであるところのエヴァンゲリオンを人類が運用するには様々なSF的な機械がいる。第三新東京市やネルフ本部は舞台装置に過ぎない。
ただ、人類が進化した次の段階はどのような形か?というのは SF によくあるテーマ。というわけで、自分はSFっぽいところに惹かれて見ていたのにTV版も旧劇も最後アレでしょ。「まごころを君に」でエヴァシリーズがロンギヌスの槍を自らに突き立てるシーンで「これ呪術やん」と内心ツッコミを入れてしまった。新劇だと、破のラストのリツコさんの独白やら、ゲンドウも「儀式を行う」みたいなことを言ってて、ちょいちょい「科学ではない」ことは提示されつつ物語は進む。正確には形而上のことがらを扱おうとしたアニメというべきか。TV版で描かれた冬月研究室の学問分野は「形而上生物学」だったし。
とはいえTV版の時に「ケーブル引きずりながらヒト型メカが市街戦するのを描きたい」みたいなこと言ってたらしい(スキゾかパラノ・エヴァンゲリオンに書いてあった)。やっぱり庵野監督は形としてはロボットモノをやりたかったんだよな。エヴァのアクションパートとか見てたら、ホントやりたいことをやりたいようにやってますよ、庵野監督。そういうテンションの作品の方が絶対、面白いんで正しい。
終わらなかったTVシリーズ、旧劇
Nifty-Serveの邪推委員会に出入りしていた当時に目にした説にこんなのがある。今で言う「考察班」がひたすらに、エヴァのあれはこうじゃないかと議論していた中の一説。
エヴァの実質の最終回は第19話 「男の戦い」である
作劇論にはあまり詳しくないが、少年誌や旧来のロボットアニメなら最強の敵の登場、味方はやられ、陥落寸前の拠点を目の当たりにして「僕はエヴァ初号機のパイロット、碇シンジです!」と叫んで最終決戦。そりゃもう、使徒を倒してハッピーエンドにもできるし、サードインパクト発動してイデオンみたいな幕引きにもできただろう。19話実質最終回説、あの当時、もう様々な見解が出ては消えていった会議室で、自分は今でも覚えてて、今でも納得できる説です。自分がガイナックスフォーラムに入り浸ってたのは「シト新生」から「Air/まごころを君に」の間なので97年の4月から9月ごろまでだけど。
ところがまあ、エヴァは終わらなかった。この先があるんだぞと。
そしてロボットアニメ的な「最終回」の先にある何か、すなわちエヴァという作品の哲学的な側面やらチルドレン達のアイデンティティの問題なんかを描き切れたのかというと、自分は描き切ってなかったと思う。シンエヴァのドキュメンタリーで庵野監督は「投げ出したとか散々言われました」と振り返っていたが、やっぱり当時「最終回を投げ出した」という言い方は耳にしたように思う。自分としては、投げ出したわけではないけど、オチが決まらないまま紙幅や制作時間が足りなくなった感じ。描ききれないまま規定の話数に達してしまったので無理矢理にでもオチをつけたと思っている。テレビ版はどうにも当初構想の通りには作れなかった気配があったし(カヲル君の登場が遅すぎる、これもスキゾ・パラノでスタッフか庵野監督自身が指摘している)、シンジを無理にでも「救って」ハイ終わり!という唐突感が強かった。せめてシンジだけは「救って」おこうというのが、所期のプロットだったかは定かではないが。
そして旧劇で改めて物語を終わらそうとしたが、どうにもならなかったので無理矢理「終劇」にしたと思っている。正直、旧劇は蛇足じゃないか? 「シト新生」の DEATH パート、総集編で作り直された1~24話だけでよかったんじゃないか。「笑えばいいと思うよ」の綾波の笑顔がコミック準拠で描き直されたし。と思ってたんですが、ゲンドウにも結構なドラマを託していることが大きく映し出されたのは旧劇だった。そして、エヴァの完結にはゲンドウを描き切ることも必要だったわけです。もしかしたら、ゲンドウを描かねばならないことに、TVシリーズ制作中の庵野監督はあまり気づいてなかったのかもしれない。
貞本先生の漫画版はそれもあってか、10年以上連載を続けてきちんと終わったそうな(今調べたら、95年~2013年7月号なので18年かかって完結した)
自分の中でのエヴァの評価は「未完のまま終わった映像表現がメチャクチャすごいアニメ、ハマってたけど歴代で一番好きかというとそうでもない」あたりです。TV版の終わったような終わってないようなラストも込みで、エヴァという作品はそういうものだと。
ついに終わったらしい
そんなこともあって、シンエヴァで見せられるのも結局、手間暇かけた「ありがとう、おめでとう」なんじゃないかと訝しがる人もいて、自分もその懸念はあった。また終われないんじゃないかと。自分は「ちゃんと終わってたら見る」と言って、新劇は序の公開当時からあまり期待してなくて見てませんでした。2007年頃だと、自分にとってもCRエヴァの方が稼いでる過去の作品扱いだった。
そしてまた制作遅延。レンタルビデオで21話以降が全くリリースされず、劇場版やってからリリースしますってテレビ版を見る術のなかった地方民の味わった悲劇をまた繰り返すのかと(地元はテレビ大阪圏外)。21話以降はテレビ大阪の深夜再放送の録画を友達か誰かが手に入れたので、それを借りて見たんだぞ。Qの後、「こりゃもう清川元夢さんが存命なうちに、終わらせにゃならんやろ庵野」ぐらいは思ってました。
そして当初予定より1年延期で迎えたシンエヴァ公開。
公開初日のTwitterタイムラインは全くの平穏であった。それだけで「これはちゃんと終わったらしいな」と分かる。それぐらい「Air/まごころを君に」の公開後のNifty会議室は荒れてた。しかし、シンエヴァを見に行くにしても序・破・Qと3作見なくてはいけないし、世の中はCOVID-19の第4波で外出自粛要請のまっただ中。
というわけで8月のAmazonプライムでの独占配信で見ることにしました。なんと字幕版28言語対応、吹き替えは10言語もあるグローバル配信。いやもう、すごい時代になったな。エヴァンゲリオンは世界が待っていたアニメなんだな。アラビア語字幕、タイ文字の字幕もありました。ただし中国本土ではAmazonプライムはサービスしていない、中国政府が規制している。なんだか恐ろしい時代でもある。
見た感想、シンエヴァに関しては自分もちゃんと終われたと思う。ラストで最初に湧いてきた感想は「着地できた」である。じゃあ、何をどうすれば「終わった」といえるのか。
キャラクターに託された劇性
この「キャラクターに託された劇性」という言葉は、漫画「沈黙の艦隊」の後書きにて作者のかわぐちかいじ先生が書いていた言葉を私なりに解釈して一文に直したものです。
しかし、この劇に登場する多くの人間たち一人一人に託したそれぞれの劇性(ドラマ)は、一応描き切ったと思い、ペンを擱(お)きます
かわぐちかいじ 沈黙の艦隊 第32巻 作者のことば より
「沈黙の艦隊」は96年に最終回を迎え、とてつもない大風呂敷でありながら見事に物語は終わりました。私がエヴァの前にハマってたのが「沈黙の艦隊」でした。
「物語」が終われば、登場人物は日常に帰ったり、新天地へ旅立ってゆく。あるいは、死んだり失踪したりして「舞台」から退場している。そうしてみた場合、シンエヴァは全員が帰るべき所、行くべき所、「居場所」へ赴いていったのだと感じた。綾波はどんな世界へ行ったかよく分からないし、カヲル君が行った先は死後の世界かもしれない。帰らなかった、行かなかった人もいる。ミサトさんや冬月先生は、目的を果たすために、果たした後に散っていった。加持さんは破とQの狭間の時間で。そうしてシンエヴァではキャラクターに託された劇性は描き上げられたと自分は思う。きちんと物語は閉じることができたのだと。エヴァがきちんと「着地」できてよかったと思う。
ところで、Amazonプライムの庵野監督の英文トリビアには「25話、26話のシンジの内面は、彼自身の抑鬱状態(depression dissorder) の終わりの過程が写し出されている」というようなことが書かれていて、それは誰の「邪推」「考察」やっちゅーねんと思わず突っ込みを入れてしまった。この文章、ブラウザからは見れなくて、Kindle Fireからでないと読めないみたい。「アクションを期待していたファンを失望させた」ともある。エヴァのラストは毎回「救済」だと定義されがちだが、それは批評家連中、今だと量産型まとめブログやYouTubeの解説動画を作ってる連中が、説明のために貼り付けた分かりやすいラベルでしかない。実際「救済」とは作中では一言も言ってないと思う。庵野監督も「救済」の言葉を出していないはず。
シンエヴァのラスト、自分はチルドレンの自立を描いたのだと解釈している。シンジが他のチルドレンであるカヲル、アスカ、レイと会って回るのはロードムービーと見ることもできる。ただ、そういう微妙で繊細な見方が通じるかというと難しい。やっぱり「魂の救済」と位置づける方が皆は納得しやすいかも。キリスト教の概念を色々と借用してるから「救済」という言葉と馴染みがいいだろうし。とはいえ、キリスト教圏の人や日本語以外の言語話者はシンエヴァをどう見て、どう解釈を紡ぐのか、興味深いが今の自分には全く分からない。
繰り返すがシンエヴァで今度こそキャラクターに託された劇性は描き上げられたと思う。少なくとも自分はちゃんと劇性は描かれて終わったと思えた。シンジや綾波、アスカは勿論、トウジやケンスケ、なんなら委員長のドラマも。当初考えていたキャラクター達、TV版のOPに映ったキャラの劇性、ドラマはほぼ全員「回収」されたんじゃないだろうか。
映像表現として
正直、期待してなかったんですよ。
というのも、序・破の予告やプロモーションを見ても「まあこれぐらい今のCG技術ならできるやろ」と思って。Qに至っては戦艦がでてくるPVだったので「あれ?カヲル君は?」と思った。
自分がエヴァで何が一番衝撃を受けて、何が今でも一番かっていうとメカニック描写や日常描写、画面レイアウト、カット割りといった映像表現な訳です。何なら今でも「残酷な天使のテーゼ」聞けば全カット思い出して感動できるぐらい。でも、新劇で作り直すとして、その時ほどのインパクトを感じられるかというと無理がある。自分も年を取りましたし、その後も色んなアニメを見てきました。庵野監督もその辺り、ものすごく大変だったのだと思う。作り直すとしてTV版の焼き直しに終始していないか、新しいものを見せられるのか?
新劇でよかったシーン、カットも序・破はやっぱりTV版がベースのところがいくつもある。破の絵コンテ集を見ると、TV版の絵コンテをコピーして貼り付けたらしきコマがいくつもある。地上波アナログ放送向けに作ったTV版と劇場版だと画面の縦横比が異なり、絵コンテのコマの縦横比もそれに合わせて違うので、明確に分かる。やはり、それだけTV版はすごかった。とはいえ、今TV版を実際に見返しても90年代セルアニメなので、凄さは感じにくいかも知れない。特にフルハイビジョン向けに作られたアニメしか見てきてない人には。地デジ開始の前後でアニメ表現に1つの隔絶があると思う。TV版のエヴァはそれ以前のアニメ、新劇はそれ以降のアニメ。
Qまでは、ほぼ庵野監督らしい画だったと思う。しかし、それではダメだとなって、庵野監督はシンエヴァで色んな手法を試みたんだと思う。自分の頭の中で考える絵コンテはとっくに限界がきてるから、他の方法でもって新しいものを作りたいと。 シンエヴァのドキュメンタリーで映されたように、ミニチュアをチマチマ修正しながらアングルや構図を探ったり、実際に俳優さんに演じてもらってカメラワークを考えたり。正直なところ、Qまでの方法ではまた旧劇やTV版と同じことになってたかもしれない。これはスタッフも物凄く大変だったと思う。既存の画を超えるために未知の制作方法を取り入れるという。ドキュメンタリーの中でベテランのはずの鶴巻監督が「どう繋げればいいんだ?」と困り切ってた。疲れて魂の抜けた鶴巻監督、眉間の皺がどんどん深くなる前田監督。ああいう作り方は庵野監督の道楽じゃねえのだけど、そういう自由な制作方法が取れて、スケジュールも融通効くぐらいの「力」を得て作っていったのだと思う。
そうして作られた新劇で気に入ったシーンも沢山あるのでそれを適当に書いていきます。一々挙げ出すと本当にキリがない。やっぱり全編1カットずつ注釈付けたいぐらい。
好きな戦闘シーン、メカ
やっぱり市街戦してて欲しいわけですよ、ケーブル引きずりながら。あとケーブルが外れると内部電源で4分しか持たないという短さ(ここまで短いのはウルトラマンからきてるんだろうか)そういう制約の中で作られる画がエヴァの見所。Qやシンでは飛んだり撥ねたりしてもう全然ケーブル引きずってないんだよ。なんなら序からしてアンビリカルケーブルがあんまり描写されてない。
TV版だと第9話イスラフェル戦での初号機&2号機のシンクロ攻撃とか、第10使徒のサハクィエルの落下を受け止めるべくケーブルをパージしたエヴァ3機が疾走するシーンとか。あるいは「ディラックの海」のレリエルにビルを盾にしつつ、ケーブル引きずってにじり寄るところとか、自分は好きなわけです。庵野監督や樋口監督もそういうのをノリノリで作っていったんだと思う、25年前に。シンエヴァの配信の前に、序・破・Qも初めて通しで見て、TV版の当時に感じた程の鮮烈さはないんだけど「やっぱりこの画はいいなあ」と思ったシーンが多くあるのも事実。
メカの新要素でいえばヴンダー。QのPVで「意味が分からん」と思ったのだが、実際に見てみたら完全に理解した「庵野監督が艦隊戦やりたかったんや!」 エヴァのヒト型で見せられるアクションもやり尽くした感じあるしな。 N-ノーチラスの起動シークエンスみたいなアニメをまた描きたかったんや。しかし、ヴンダーの格好良さの半分はN-ノーチラスのテーマの格好良さやからな!シンエヴァの同型艦同士でミサトさんと冬月先生の艦隊戦もよかった。でもあれも「激突!轟天対大魔艦」ていうBGMのよさも割とあるからな!
残念というか、もうメッチャ見たかったのに何故描いてくれなかった?!と思ったのが、Qで流れたシンエヴァの次回予告、2+8号機の大立ち回り。タンデム座席のエントリープラグとかでアスカとマリがぎゃーすか言いながら大立ち回りして欲しかったなあ。見たかったなあ。
他、箇条書きで、
- エヴァの射出進路表示器が何故かアナログ
- 庵野監督、鉄道も好きだからな。開業当時の新幹線の中央司令室みたいなヤツ描きたかったんやな。庵野作品では時々、鉄道の機器が出てくる。
- 第三新東京市の都市風景
- ビルとか集光タワー等。ミサイルランチャーとか軍事施設の密集具合はちょっとくどいが
- ヤシマ作戦の規模感がスケールアップ
- 歌う真希波「しっあわっせはー歩いてこない だから歩いて行くんだねー」
- 真綾さんの声は最高
- 第8の使徒(TV版サハクィエル)戦
- ハードル走のように高圧送電線を飛び越えるエヴァ(これはTV版と同じ)
- 加速した初号機が衝撃波をぶちまける
- 第三新東京市が変形して「トラック」を形成
- ヴンダーのエンジン始動は2号機が点火プラグを物理的にぶち込む
- この辺もナディアのセルフオマージュかな?と思う。「さよなら…ノーチラス号」で空中戦艦に捕らわれたノーチラス号のミサイルハッチを人力でこじ開けるところに似てる。
- ヴンダーの主翼先端がシュワンという感じで開く
- N-ノーチラスも主翼が可変翼。このギミック好きだよな。嫌いなヤツおるんか?
- 推力上昇1160万トンてなんですか?ヤマトが1160万トンだったから特に意味はない
- やっぱり大塚明夫さん。潜水艦には大塚明夫を乗せろと(沈黙の艦隊のアニメでも深町艦長役やったからな)
- ナディアに続いてまたしてもエッフェル塔壊滅
- 庵野監督はパリに何か恨みでもあるのか
- 空母の甲板に乗って自由落下していく2号機と8号機
- N-1ロケットの第一段を艦尾につけた艦艇が突っ込んでいくところ
- シンゴジラの無人在来線爆弾の画と似てる、庵野監督の趣味だよな
日常描写で好きなシーン
日常描写もいいのがエヴァ。後半に日常が壊れていくのでつらいんだけど、それがエヴァ、しゃーない。薩川さんや、サトジュン監督とか、日常描写がメチャ上手い演出家の皆さんがやってるので名シーン多いです。
- 様々な綾波
- 教室に入るとき「おはよう」っていう綾波
- 絵コンテには雑巾を絞るカットがあったけど、ボツになったみたい
- 田植えをする綾波(仮称)
- 猫を見て微笑む綾波(仮称)
- ミニ図書館に行く綾波(仮称)
- 色々な「おまじない」を教わる綾波(仮称)
- 教えている委員長の声は岩男潤子さんである。この声のために14年経過させたとしても許す。
- アスカとシンジ
- 風呂から飛び出たアスカの裸を見てしまい、蹴り飛ばされるシンジ
- シンジよ、14歳で同じ年の女子の裸とか普通は見る機会ないぞ
- 綾波の裸も見とるし
- 教室で「夫婦喧嘩」するアスカとシンジ
- この辺、TV版の雰囲気を再現してくれたので嬉しい
- シンジのために料理に挑戦するアスカ
- 「僕もアスカが好きだったよ」のシーン
- 「二人の関係性は幼なじみ」という解釈を2000年頃に同人誌で見て、目から鱗が落ちた思い出がある。ニフティの方ではこの説は目にしなかった。
- アスカには14年の間に帰るべき場所、帰れる場所ができたから、ここでお別れ
- 風呂から飛び出たアスカの裸を見てしまい、蹴り飛ばされるシンジ
- 水族館へ遠足
- ミサトの酒の飲みっぷり
- 加持さんと入った居酒屋のシーンとか
- アスカとミサトの電話シーン
- 電話といえばサトジュン監督だが(ポケ戦、鳴らない電話、ビバップのスピーク・ライク・ア・チャイルドなど)ここはサトジュン監督の絵コンテではない。
よかった心理描写
シンジの心象風景の電車は変わらずなんだな。あのシーンはやっぱり象徴的。マイナス宇宙でゲンドウが語るときも同じ電車の風景だったので、碇親子の共通の体験として、あの古い電車があるのかも知れないと思った。もしかすると、ユイさんも関係している?ちなみに、ちゃんと吊りかけ式の古い車両のモーター音。床が木張りの電車はああいう音が多いと思う。
- やっぱり綾波
- ベッドにうつ伏せになる綾波。ただし、これはTV版と構図同じ。
- 「上手くなったら教える」という綾波
- 綾波(仮称)の別れ際
- 新劇全般、綾波の表情の付け方と林原さんの演技が絶妙に上手い
- ゲンドウとシンジの墓参り
- サトジュン監督の絵コンテだと思う。TV版の時はサトジュン監督絵コンテ回のシーンだから。破の絵コンテ集を見た感じ、おそらくそう。
- シンジのベッドに潜り込んでくるアスカ
- ここは錦織監督の絵コンテか?分からん
- TV版だとシンジと雑魚寝しながら話をしてたのは加持さんだった
- 「男と女の間には深くて暗い川が流れている」とか
- シンジと将棋を指す冬月先生
- やっぱ清川元夢さんの声はいい
- 綾波(仮称)がLCLに返ってしまい、目を腫らしたシンジが乗船を伝えるところ
- DATプレイヤーをゲンドウに返すところ
メタ表現
シンエヴァのメタ表現は結構、いやかなりよかったんじゃなかろうか。ゲンドウ曰く「マイナス宇宙を我々の感覚機能では認知できない」ので、LCLが媒介となって記憶を使って仮想の世界を形成しているみたいなので、スムーズにメタ表現を出して行けたんじゃないかと思う。
- セットの第三新東京市で戦って書き割りを壊すエヴァ
- この木造物の壊れ方、大塚康生さんのDNAを感じる。ジブリなんよ、ここだけ。
- 電車を降りるゲンドウ、カヲル「ここからは僕が引き継ぐよ」
- 幼なアスカの付けてる宮村さん自画像キーホルダー
- 綾波とシンジの後ろのプロジェクタにTVのサブタイ画面がフラッシュで流れる
- 綾波の「ネオンジェネシス」の呟くような言い方がいい
- しかしTV版や旧劇もコンプリートしてないと、イマイチよく分からないシーンでは
- 浜辺にたたずむシンジの画が、セル画 → 線画 → 原画用紙と「還元」していくところ
- 林原さん歌唱のVoygerの後奏がよくあってる、自分が作品の着地、間違いない終わりを確信したのはこのシーン。「もう大丈夫だろう」と思った。
- 真希波「よっしゃー、間に合ったー!」
ホンマ、間に合わんかったらシンジが人の形を保てなくなってたぞ - 結局、真希波って何者? →「胸の大きい、いい女」
- 眼鏡がQ以前のフレームに戻ってるのは、シンジの記憶がそうだから?
- 一説によると、庵野監督にとっての鶴巻監督が真希波だそうです、庵野監督談。
- シンジと真希波が駆けだした先は、実写の世界
終わらせたスタッフに感謝
ちゃんと終わらせてくれてよかったです。鶴巻監督や前田監督、樋口監督や山下いくとさん、貞本さんは庵野監督とはトップをねらえ!やナディアからの付き合いだと思う。本当に長い間、ありがとうございます。新劇からの新しいスタッフも含めて全員に感謝を。
そして私の邪推委員会活動も、これを以て終わりにしたいと思います。